第9章 子育て奮闘記⑶

昭和57年7月24日 大洗海水浴場にて

 昭和57年後半に入ると、労働組合の役員改選の時期となり、私は役員を降りることも考えたが、合理化問題が佳境に入り、中心になってやっていたので、途中で放棄することは、現実的に無理だった。

 後1年と決めて、役員を継続することになったが、継続を決めたのは、一緒に役員をやっている仲間との関係が良好だったことも要因で、逃げ出すことができなかった。

 仲間意識が強くなり、時には我が家に呼んで、妻の手造りで食事を振舞うこともあった。子供達も仲間に懐いて可愛がられ、妻の内助の功に対する評価が高まり、羨望されたことも確かである。

 私は、多忙な中にあっても、子供達と一緒に遊ぶことが父親の勤めと任じ、妻の子育ての補助を心がけていた。内助の功と、子育て補助が一体になって、100点万点の家族ができ上がっていった。

 一方で、私の親姉弟は、私の多忙さを歯牙にもかけず、我が家にオーダーを発してきた。そのほとんどが妻に向けられ、私が拒否すれば、妻にとばっちりが行き、断れない状況が作られた。

 あらゆる面で、我が家は強い向かい風にさらされていたが、家族が一つになって強風を押し切っていった。家庭では、どんな荒波にも負けない、絆で結ばれていた。

 私は体調を崩すこともあったが、仕事に縛り付けられながらも、家族との交わりをないがしろにはしなかった。子供達も私に期待を持っていて、妻も子供達を遊ばせる事を願い、出かける時には早起きして弁当を作っていた。

 家族は一体になれた事が、幸福の証だった。

 7月22日(日) 大洗海水浴場にて

 二日目 午前中は水族館を訪れる

 二日目午後はプールへ

 三日目 プールにて

 8月12日 上野動物園にて

 8月29日 上越新幹線試乗会

 10月10日 孝介幼稚園年長組の運動会

 12月18日 孝介幼稚園のお遊戯会

 12月18日 靖宏4歳の誕生会・孝介のお遊戯会に合わせ、三日早めて行った